2/1、バンコクのプログラミングスクール「iSara」の2期が終了しました。
2期の方々もいい方ばかりで、授業する側としても本当に楽しい20日間でした。
何より「iSaraでの学びと出会いは本当に価値あるものだった」と受講生の皆さんに言っていただけたのが嬉しかったです。
iSaraはタイ語で「自由」って意味だそうです。
海外をふらふらと渡り歩く、自由なノマドフリーランスになりたい人には、iSaraの講座参加がおすすめ。20日間やり遂げれば、人生の幅が一気に広がります!
バンコクのプログラミングスクール「isara」に参加した感想とまとめ https://t.co/pullyFEnl5
— テツヤマモト🇹🇭バンコク (@okapo192) 2018年2月1日
iSaraバンコク講座が修了しました!
講師の皆さん、同期の仲間に出会えたことが何よりの宝物になりました😌✨
バンコクでの講座は終わりましたがここからがスタートラインなので、みんなに負けないように自分を磨き続けます!
また世界のどこかで!\( ˆoˆ )/#isara#isara2nd pic.twitter.com/1pFaRHVyU1— ちづみ@iSara2期生 (@098ra0209) 2018年2月2日
講師冥利に尽きる。
20日間、本当にありがとうございました!!また世界のどこかで会いましょう( ^ω^ )いつまでも応援しています。#isara2nd #isara pic.twitter.com/wr7BO1bMmp— showhey@バンコク (@4_R_R_S) 2018年2月1日
僕自身も、毎日一生懸命に課題にうち込んでいる2期の方々をみて「もっと頑張らなければ!」とやる気をもらってました。
途中から授業が終わっても帰らずにいたのは、2期生の姿をみて僕のモチベーションを高めるためですw
20日間、本当にお疲れ様でしたm(_ _)m ありがとうございました!!
iSaraのおかげで、改めて「挑戦する大切さ」を思い出したので、初心にかえる意味も込めて、学生時代〜今までの8年間に僕がしてきた「小さな挑戦」を書いていきたいと思います。
このブログを読んでくれた方にも、何かの参考になれば幸いです。
ひたすら遊んでダーツしてた1年生〜3年生
熊本の実家から京都に出てきて、初めての一人暮らし。京都での日々はとにかく楽しかったです。
毎日のように友達と遊んで、テスト前にはみんなで一夜漬けしながらギリギリ赤点をしのいでいました。
一応、法学部でしたが法律のことは何も覚えてませんw
そもそも法律に興味があったわけじゃなく、法学部だと潰しがきくと聞いたので、「特にしたいこともないし法学部でいっか」と決めただけでした。
あぁぁぁ恥ずかしい…。
そんな感じの学生生活だったので、学業面はボロボロでした。
そんな学業の代わりに、ひたすらダーツをやってました。
ちょっとやってみたら楽しかったので、友達を誘って、学校にもいかず毎日ダーツしてました。
そこそこの人数になったので、サークルにしました。
さらにのめり込んでいったので、バイト先もダーツバーにしましたw
僕はプロライセンス取れませんでしたが、自分が作ったサークルから2人もプロが出たのはいい思い出です。
(↑サークルのメンバーと。いろんな大会にも出ました。名古屋あたりまでなら遠征してましたw)
それに、同年代との関わりが多い大学生活で、ダーツを通して年上の方々と交流できたのはいい経験でした。
会社やお店を経営してたり、役者目指してたり、何年も留年してたり、大手企業に勤めてたり、学校の先生だったり…。
運良く様々なバックボーンの方々が親しくしてくださったので、毎日が社会科見学でした。
その時は何気なく聞いてたけど、色んな方の人生経験を聞けたのは大きかったです。
あともともと人と話すの得意じゃありませんでしたが、コミュ力(特に年上の方との)が少し向上しましたw
初めて”やりたいことは何か”を考えた就活
それでも、やっぱりこの時はまだ「卒業したら就職」という考えしかなく、4年生になると普通に就活を始めました。
今までずっと将来のことを考えることから逃げて来てたので、この時は困りました。
何やったらいいか全然わからん…w
ただ、何かのニュースで”失われた20年”というフレーズを聞いたのをきっかけに、興味を持ったのが新興国。
1991年〜2011年までが日本の経済成長率が低迷していた”失われた20年”の時期なので、僕の大学時代までがほぼすっぽりとその時期でした。
自分は生まれてから一度も「景気が良い」状態を知らない。
1960年〜70年の日本のように、10年で平均年収が2倍になって、どんどん新しいものが生活の中に取り入れられて、活気ある企業が山ほどあった時代。
そんな時代の中で働くって、どんな感覚だろう。
これからその時代を迎える国で働いて、その感覚を味わってみたい。
そんなことを考えて、新興国で働きたいと思うようになりました。
もともと旅も好きでしたしね。
就職先には産業用ロボットや自動認識の技術を持つメーカーを選びました。
ロボット分野で就職すれば、まだまだ日本に強みがあるし、(大手総合商社に入れるほど優秀じゃなかった僕でも)海外営業のポジションが狙えるんじゃないかと思って。
先に書いちゃうと、結局この会社は1年で辞めることになるんですが、いま僕はタイに住んでます。
タイは中進国ですが、このころ夢みてた「伸び盛りの国」の経済発展の様子を、肌で感じられてるのは感慨深いです…。
やってることは6年の間に大きく変わりましたが、この時に抱いた新興国への興味だけはいまだに変わってません。
いまは日本市場をターゲットにした事業ばかりなので、今年は現地の方々と絡んで展開できる事業を作りたいなぁ。
できればWebよりリアルなモノづくりがしたい。
タイでモノづくりされてる方、もしいらっしゃったら伺いますのでぜひお話聞かせてくださいm(_ _)m
選択肢を知った南米旅行
無事に内定をもらってから、ずっと行ってみたかったウユニ塩湖を見るために南米に行きました。
雨が降った後だとまるで空の中に立ってるように見えるアレです。
最近CMでも頻繁に使われるようになったので、ますます有名になってますよね。
ウユニも、他のスポットも、写真がなければ「夢だったんじゃないか」と思うくらい綺麗で、本当に行ってよかったんですが、一番思い出に残ってるのは人との出会いでした。
南米で出会う日本人って、「ちょっと仕事休んで来てる」みたいな人って少ないんですよね。
ボリビアやペルーへの直行便はありませんし、飛行機で乗り継いでも30時間ほどかかる物理的な遠さがあるので、1週間くらいの休みで気軽に行くにはちょっと遠いですw
だからそこで出会う人たちは、仕事しながら旅してたり、自分の生き方を旅の中で模索してたり、現地に住んでる人だったり。
それまで、「卒業したら就職する」という選択肢しか頭になかった僕にとって、こうした人たちとの出会いは刺激的でした。
それまでにもそうした人たちには会ってたはずなんですが、どうも現実味がなかったんですね。
たぶん、就活という「自分の未来を決める経験」をした後だったことと、それまでいった国より「自由な生き方」をしている人が多かったから、余計そう思えたんだと思います。
特に記憶に残ってるのが、ボリビアの首都ラパスで会った、日本食レストランを経営されてるお母さん。
そもそも南米行きの飛行機で席が隣になった方が日系2世のシンスケさんという方で
スペイン語の入国用紙が読めず困ってる僕に声を掛けてくれたのが始まりでした。
ご実家がラパスで最も有名な日本食レストラン「NEW TOKYO」で、家に招待してくださり、料理まで振舞ってくださいました。
(おかげさまで僕がボリビアに着いて最初に食べた料理は美味しい生姜焼きでしたw
New TOKYOのみなさん本当にありがとうございました。)
シンスケさんのご家族とも仲良くなって、滞在中に何度もお邪魔してました。
そんなある日。シンスケさんのお母さんが、仕事の合間にポツポツ話してくれました。
ブラジルに日本人移民が多いことは有名ですが、ボリビアにも約1.5万人の日系人の方々がいるって知ってました?
シンスケさんのお母さん・お父さんは、移民としてボリビアに来られた方だったので、その時のお話を聞いたんですが、まぁ壮絶で。
まだ子供だったお母さんのご両親は、豊かな土地で自由な暮らしができるという募集を見てボリビア移住を決めたそうです。
ただ、実際に与えられた場所は南米のリアルジャングル。
その中でキャンプしながら木を伐って、土地を開拓するところからが始まり。
噛まれたら死ぬような虫とか本物のアナコンダとかいる中で、です。
まだ幼かった妹さんは、その時に病気にかかってしまい、亡くなってしまったそうです。
そんな僕みたいな平和ボケには到底理解できない苦難を乗り越えて、日本人村が安定して来たころ。
シンスケさんのお父さんから「ラパスで飲食店を始めるから、その手伝いをしてほしい。ホント、ちょっと手伝うだけだから。」とお願いされます。
まぁウェイターとしてちょっと手伝うだけなら…としぶしぶ了承したところ、実際に任されたのは料理長。
話が違う!!と最初は怒ってたそうですが、それでも目の前にお客さんは来るし、スタッフはお母さんの指示を待ってるわけで…。
「料理の修行なんてしたこともない自分がなんで…」と思いながらも、がむしゃらに料理を練習して、お店を切り盛りして。
そうしてるうちにだんだんお店が大きくなって、いまのNEW TOKYOになったの、とおっしゃってました。
↑ホームパーティに招待していただいた時の写真。一番奥に座ってるのがシンスケさん。
ちなみにNEW TOKYOで出されてるお米は日本米です。
日本からの輸入ではなく、移民の方々が開拓した土地で作られたボリビア育ちの日本米です。
名物の美味しいサーモン寿司も、チチカカ湖で養殖したマスを使って再現した、と。
「本物っぽい?」と心配そうに聞いてくれましたが、日本で食べる寿司そのものでした。
(お母さんは病気で手術するために1度帰国したことがあるだけで、日本には全然帰ってないそうです。つまり料理はすべて独学!)
全てをゼロから開拓して生きてきたお母さんの人生は、当時の僕にはまるで絵本か何かの話のようで。
今聞いてもすごいんですけど。
「卒業 = 就職」
「新興国で働きたい = そういう会社で仕事する」
っていう考えしかなかった僕にとって、お母さんや南米で出会う人たちの生き方は衝撃的でした。
同じ目標に向かってても、こんなにたくさん道あったの?
あ、そもそも道を作るって方法もあるの?
違う道を行ってたはずなのに、別の場所にたどり着いたりもするんだ
って。
本当の意味で「色んな生き方がある」ことを知りました。
同時に、心の中にちょっとしたモヤモヤが生まれた瞬間でもありました。
この時はまだモヤモヤの正体がよくわかりませんでしたが、とにかく楽しい旅に満足して帰国しました。
ウユニの絶景に感動してたわずか10日後に、あんなことになるとも知らずに…。
まとめ
やばいこのペースだと今に至るまでを書くのに5記事くらいかかりそう…w
最低週1では更新したいと思いますので気長に見ていただければm(_ _)m
学生時代の僕をまとめると、本当に何にも考えてませんでした。
ダーツや就活や南米旅行を経て、ようやくちょっとだけ人生について考えるようになりました。
この時期の僕にとっての挑戦は
・ダーツに没頭
・将来やりたいことを考える
・旅に出る
でした。
多分サークルや部活に打ち込んだり、就活したり、旅に出たりって学生であれば珍しいことじゃないですけど、
ダーツにしろ旅にしろ、「自分をとりまく普段の環境」と違う人たちと多く関われたのが良かったのかなーと思います。
大学生までって良くも悪くも同年代との関わりがほとんどですしね。
そういう意味では、この2つに打ち込んだのも良かったのかも。
プロ目指すくらいガチでダーツやってなければ、きっとここまで多くの人とは会えなかっただろうし
ライトに観光地を巡る「旅行」だったら、お母さんみたいな人には会えなかったんじゃないかな。
「将来やりたいことを考える」は遅すぎたけど、面接を乗り切る用の答えじゃなく、自分なりに真剣に悩んだところはファインプレー。
これのおかげでようやく人生について少しずつ考えるようになったので、就活は大切なプロセスでした。
次は大学生活最後に起きた事件と、就職してから辞めるまでの1年について書きたいと思います。
ありがとうございました!