こんにちは。
今回はごく普通の僕が、目標をみつけて新興国で生きるようになった話〜大学編〜の続き。
学生生活最後の3ヶ月と、新卒入社して入った会社を辞めるまでの1年のお話です。
死ぬことが特別じゃなくなった交通事故
“色んな生き方がある”と知り、たくさんの衝撃をうけた南米旅。
その旅から帰ってきた10日ほど後、僕は交通事故にあいました。
京都の夜道を原付で走っていた時のこと。
一時停止を無視して突っ込んできたバンに跳ねられました。
跳ねられて倒れ込んだ僕の体の上に、バンの前輪が乗っかった状態で止まりました。
それで肺と肝臓を痛めました。
そのままバックしてくれればよかったんですが、運転してた人がテンパってブレーキを離してしまったので、バンがゆっくり前進してきて。
それで前輪に顔を踏まれて、歯が折れ、アゴの骨を骨折しました。
自分のアゴの骨が砕ける音を聞くのは本当に気持ち悪かったです。
ただ、ヘルメットがタイヤの前の金具に引っかかってくれたおかげで、それ以上前進してくることはなく、頭までは踏まれずに済みました。
このあたりで全身の感覚が麻痺してきて、「あ、意識失ったら死ぬんだろうな」と思ったのを覚えています。
だからこの後、救急車で運ばれ、緊急治療室に入って麻酔をかけられるまで、ずっと起きてました。
「まだ死ねない」「まだやりたいことがいっぱいある」と思って。
4枚目の写真ホントやばいなw
謎にニヤついてるので余計に気持ち悪いですww
この頃にはもう命に別条はない事はわかってたんですけど、顔が元に戻るのか不安で絶望してました。
今でこそ、ネタにできるくらい綺麗に戻ったのでよかったんですけどね。
この事故のせいで、しばらく病院のベットにいたんですが、そこで改めて自分の人生について考えてました。
事故から学んだのは、“いつ死ぬか分からない”ってこと。
いつ何が起こるか分からない。今回みたいな事故がまた起きて、いつ死ぬか分からない。
僕は30代半ばあたりまでに、内定をもらった会社で海外営業になれればいいなと思ってました。
「新興国で働く」「高度経済成長を体感する」って夢を、30代半ばまでに叶えられればいいって悠長に構えていたけど、
明日死ぬかも知れないのにそれじゃ遅いんじゃないかと思うようになりました。
南米での経験も思い出して、
人生には”色んな生き方”があるのに、当然のように「会社で働く」という枠の中だけで人生を考えてた自分に気付いて、本当にこれでよかったのかと疑い始めました。
これが南米旅で抱いた謎のモヤモヤの正体でした。
自分の見てた世界ってめちゃくちゃ狭かったな、と。
なんというか”すごい人”ならこの時点で就職やめてるんだろうけど、僕は保守的なので、「じゃあ具体的にどうすればいい?」という答えが出ず、結局ケガが治ったあとに就職しましたw
これだけの経験して色々考えたのにね。
まだ行動に移しませんでした。
ヘタレだなぁ(-.-;)
社会人1年目
“いい例”と”悪い例”を知れた会社生活
ケガが治った後、僕は内定をもらっていたロボット・自動認識の技術をもつメーカーに就職して、営業として働いてました。
このとき東京に配属されたのがきっかけで、ここから4年間ほど東京生活します。
配属先のロボット営業部で、僕に教えてくださった先輩たちは本当にいい人たちでした。
ビジネスマナーも、基本的な仕事の仕方も、ここで教えてもらいました。
みんな職人肌で口数は多くなかったけど、仕事ぶりで「楽しく仕事をするとは何か」「プライドを持って仕事をするとは何か」を見せてくれました。
しばらくは病院で抱いた思いも忘れて、「この環境で修行して、夢を目指すのもいいかも知れない」と本気で思ってました。
ロボットのこと何も知らないし、ワケが分からなくて大変だったけど、自分から飛び込んで「理解しよう」とすれば仕事は楽しくなると学びました。
そんないい例と同時に、”こうはなりたくないな”という悪い例も見せてもらいました。
役職が上になればなるほど、「技術的なことは知らん」「できれば責任も取りたくない」って態度がロコツになって、それがたまらなく嫌で。
自分の商品のことすら知らず、知ろうともせず、それなのに前線で頑張る先輩たちが困った時のフォローもしない。
管理職と現場の違いってやつかも知れませんが。
特に印象に残ってるのは、東京ビックサイトで1週間がかりで行われる、2年に1度の大きな展示会に出展したときのこと。
全員が展示の準備やお客さんの呼び込みをやってる間、役員がずっとコンパニオンと話してて。
新人ながら「あ、この人クソだな」と思いました。
先輩たちのことは大好きでしたが、それを上回るくらい尊敬できない人とは一緒に仕事したくないと強く思った出来事でした。
入社して8ヶ月くらいで、再びモヤモヤし始めます。
じいちゃんのメッセージ
社会人になって10ヶ月がたったころ、じいちゃんが亡くなりました。
阿蘇で草原やりんごの栽培、放牧などの研究をしていたじいちゃんは、子どもの頃の僕にとって、面白いことを何でも知ってる“自然マスター”でした。
焚き火をしたり、カブトムシ捕まえにいったり、畑で野菜をとったり、マス釣りに行ったり。
もちろん大のおじいちゃん子で、阿蘇に行ける夏休みや冬休みが本当に楽しみでした。
今でも根本的にモノづくりが好きだったり、自然の中で感動するのはじいちゃんの影響だと思います。
ですが、僕が10歳のころ、じいちゃんは重度の脳梗塞を起こしてしまい、あんまり喋れなくなりました。
体の半分も不自由になりました。
その後、もう一度脳梗塞を起こしてしまい、完全に喋れなくなりました。
体もますます動かなくなって、入院してる時間がどんどん増えました。
それでも10年以上、リハビリと入院を繰り返しながら頑張ってました。
そんなじいちゃんが亡くなったので当然悲しかったんですが、葬式で親父のスピーチを聞いて、気持ちが変わりました。
「じいちゃんも、そろそろ我慢できなくなって、大好きな阿蘇の草原に帰っていったんだと思う。」
この言葉を聞いて、なんだか本当にそんな気がして。
ずっと生活の一部だった阿蘇の景色を、病院のベットから眺めるしかないじいちゃんは、もどかしかったと思う。
真面目で謙虚だったじいちゃんのことだから、僕ら家族のために10年我慢したけど、ついに自分を解放してあげることにしたんだろう。
きっと今ごろ大好きな阿蘇の草原の中に座って、草原文化の本でも書いてるんだろうな、と。
悲しいというより、「良かったね」って思えてきて。
その時ふと、「色んなモヤモヤを抱えながら仕事してる自分はどうなんだろう」と考えました。
せっかくロボットのことも好きになったし、
尊敬できる先輩たちともっと仕事したいし、
親にも心配をかけるし。
何より「1年も保たずに会社をやめる」ってダサい、みたいな気持ちがありました。
事故のあと結局就職したのも、ホントは”答えが出なかったから”じゃなくて“真っ当な道を踏み外したと非難されるのが怖かったから”だと、このとき初めて気づきました。
要は世間体を気にしてました。
そんな僕に、喋れなくなったじいちゃんが「俺は草原に帰ることに決めたぞ。お前も好きなことやれよ」って最後のメッセージを残してくれた気がして。
「人生にはいろんな生き方がある」「いつ死ぬか分からない」って、学生生活の最後で感じてたことを思い出しました。
決断
じいちゃんの葬式を終えて東京に戻った日、上司から部署の異動を言い渡されました。
なんというタイミング!!
尊敬できる先輩たちと仕事できないならここで働く意味ない。
これが最後の一手になって、モヤモヤのダムが決壊しましたw
「事故」「尊敬できない上司」「じいちゃん」「異動」と4つ揃って、ようやく会社を辞めようと決断しました。
そして、自分のやりたいことを、もっと早く実現できそう道をゼロから探そうと決めました。
いつ死んでも後悔しないと言い切れる道をゼロから探そうと決めました。
本当に決断遅いな〜。
先輩たちに辞めようと思うと伝えた日は、めちゃくちゃ泣きました。
特に僕のメンターをしてくれた先輩に話すのは、本当に心苦しかった。
そのあとも僕のために色んな話をしてくれたし、異動も取り消すように計らってくれたけれど、もう気持ちは切り替わってました。
2014年4月。僕は、新卒で入社した会社を辞めました。
まとめ
この時期の小さな挑戦は、「会社に勤めること」と「会社を辞めること」ですね。
事故は文字通りアクシデントで、2度と経験したくない出来事ではあるけれど、
これがきっかけで悠長に生きてちゃダメだと思えたし、自分の視野の狭さに気付けました。
26歳のうちに新興国での生活をスタートできたので、事故のおかげで目標の実現ペースが早まったのは間違いないです。
会社に務めた経験も大きかったな。
この後のことになりますが、プログラミングをゼロから勉強できたのはロボットのことをゼロから勉強した経験と、自分から飛び込めば仕事は楽しくなるという経験をさせてくれた先輩たちがいたから。
あとフリーランスって1人で仕事してるイメージ強いかも知れませんが、ビジネスマナーやコミュ力はめちゃくちゃ必要なので、ここで営業の基礎を学べたのも今に活きてます。
そして、今楽しく仕事ができているのは、周りに尊敬できる人しかいないからです。
尊敬できない人と無理に仕事しててもストレス溜まるだけですし、そのうち自分まで腐っていくので環境を変えましょう。
じいちゃんと異動のタイミングについては、何かのご縁だったとしか。
ありがとうm(_ _)m
なんか色々書きましたが、結果だけいえば「悩んで会社辞めた」だけです。
ただ、「お金を稼ぐ=会社で働く」「やりたいこと=会社の中でかなえる」だった僕にとって、
全ての前提にあった”会社”を離れるのはめちゃくちゃ不安でした。
「辞めてどうするか具体的な方法も自信もないのに辞めていいはずない」という固定観念と戦ってた1年半でした。
自分の中の固定観念との戦い。そうして自分でも分からなかった自分の本音を引き出すための戦い。
強敵・固定観念を倒すには、きっと年齢的なリミットがあります。
歳を取れば取るほど、固定観念は強くなっていきます。
22~23歳の僕で、旅やら事故やら色んな武器が揃って、1年半がかりでようやく倒せました。
僕の本音は
「会社辞めて生きてく方法も分からないし自信もないけど、
できるかできないかは置いといて、それを模索するところからやってみたい」
でした。
就活の自己分析なんかじゃ絶対に本当の自分は分かりませんよ!外に答えを求めても見つかりません。
時間かけてじっくり自分と対話してください。
一度倒せば、なかなか倒れない強力な”軸”になってくれるのも彼ですからね。
それでは次は「辞めてからの1年」を書きたいと思います。いよいよ今やってることに繋がってきます!
読んでくださってありがとうございました!